石鎚山
(いしづちやま いしづちさん)
愛媛県久万高原町・西条市

  石鎚神社 前神寺 横峰寺 笹ヶ峰 『四国遍路の寺』

※ 一部、管理人がふりがなを入れました

石鎚神社 (いしづちじんじゃ)

<石鎚神社>の公式サイトより要約
石鎚山は役行者(役小角)により開山された。その後、寂千菩薩が石鎚蔵王大権現と称えて信仰。山路を開き、登拝者を導き、常住社(現在の成就社)を創立した。その後、上仙大師、光定大師などが横峰寺や前神寺を創立して石鎚神社の別当寺となった。明治に入り神仏混淆(しんぶつこんこう)が禁止され、別当寺が廃止されて純粋な神社と定められた。

頂上社(弥山)、成就社(じょうじゅしゃ)、土小屋遥拝殿(つちごやようはいでん)、本社の四社をあわせて石鎚神社という。祭神は石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)で、石土毘古命(いわつちひこのみこと)あるいは石鎚大神(いしづちおおかみ)ともいう。また、三つの神徳(神様のお蔭)を表すため三体の神像を祀っている。玉持(たまもち)、鏡持(かがみもち)、剣持(つるぎもち)の各神像である。

●「石鎚神社」のサイト:
    http://www.shikoku.ne.jp/ishizuchi/ishizuchi_sinkou_yuisyo.html


前神寺 (まえがみじ)

<四国八十八ケ所霊場会>の公式サイトより要約
役行者(役小角)が石鎚山で修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が石蔵王権現となって現れたのを感得、その尊像を彫って安置し祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇(在位781〜806)が病気平癒を祈願、成就されたので七堂伽藍を建立して勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した。

その後、明治新政府の神仏分離令により寺領を没収されて廃寺となった。その間、石鎚神社が建立されたが明治22年に霊場として復興した。

※ 前神寺の境内に掲げられた「石鉄山縁起之事」より
當山は、天武天皇五年神変大菩薩の開山でありまして、石鉄大権現を感見得仏され、石鉄山中に鎮護国家、仏道修行の道場を開山されました。

延暦年間、桓武天皇の叡信篤く国司に命じ伊予橘の里(現 石鎚神社の所)に七堂伽藍を建立し金色院前神寺と命ぜられ、以来勅願寺として文徳、高倉、後鳥羽等各天皇は仏像経典を奉納、又堂塔を建立せられました。当地、西条藩も祈願寺として境内に東照宮(現西条神社)を祀る等帰依篤く寺紋であります三ツ葉葵を許されました。

石鉄開山以来、石鉄山頂上、常住奥前神寺、里前神寺、入峰修行参道をはじめ七里四方の寺領を有し、石鉄山の根本道場として全国より参詣の信徒の中心として尊信せられました。
然るに明治初年、所謂「廃仏毀釈」の暴論により當山の境内地、建物、参道、寺領等総てを没収しその跡に石鎚神社を設立しました。

時の住職大律上人は、石鉄開山以来石鉄信仰の中心であります石鉄大権現を報じて現在地に移り石鉄山根本道場として古来よりの修験道の法灯を伝えました。

前神寺は、真言宗石鉄派の総本山として、石鉄修験道の根本道場として、又四国六十四番霊場として数々の法灯を伝え現在に至っています。 総本山 前神寺

●「四国八十八ケ所霊場会」のサイト:
    http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/64maegamiji/index.html


横峰寺 (よこみねじ)

<四国八十八ケ所霊場会>の公式サイトより要約
役行者(役小角)が石鎚山の星ケ森(ほしがもり)で修行中に山頂付近に蔵王権現が現れ、その姿を石楠花(しゃくなげ)の木に彫り小堂を建てて安置したのが創建とされている。

大同年間(806〜810)、弘法大師が厄除けと開運祈願の星供養の修法をされ蔵王権現を感得、堂宇を整備して霊場とした。その後、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となったが明治42年に復興した。本尊は伝弘法大師作の大日如来坐像。鎌倉時代の金銅蔵王権現御正体像も祀る。

●「四国八十八ケ所霊場会」のサイト:
    http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/60yokomineji/index.html


笹ヶ峰 (ささがみね)

<ウィキペディア/笹ヶ峰/山岳信仰>のサイトより
山頂には金剛笹ヶ峰石鉄蔵王大権現と大日大聖不動明王が祀られる。石鎚山および瓶ヶ森と共に「伊予の三名山」とされてきた。古代、石鎚山として称された山は瓶ヶ森、子持権現山および笹ヶ峰であったとされる。『正法寺史』の記述に基づくと奈良時代の石鎚山は瓶ヶ森、子持権現山、笹ヶ峰のうち、現在の笹ヶ峰を指していたとする説があり、新居浜市の石鉄山正法寺は現在も石鎚権現の別当を主張している。

●「ウィキペディア/笹ヶ峰/山岳信仰」のサイト:
    https://ja.wikipedia.org/wiki/笹ヶ峰


『四国遍路の寺』より

(上 P58)
現在はケーブルカーで上がったところが常住(じょうじゅう)という常住僧がいたところです。ここにもとの前神寺がありました。本当の本尊さんは山頂にあって、お寺は中腹にありました。里のお寺が現在の前神寺です。

(上 P58)
前神寺の蔵王権現を、石鎚神という神像に変えて祀って石鎚神社となったので、石鎚神社は前神寺の一部です。ところが石鎚神社はそうとはいわれたくないものとみえて、前神寺に続いていた社殿を別のところに移しました。現在、お参りする石鎚神社は、もとは何もなかった山の中を開いたものです。

(上 P58)
いまの前神寺は里のほうのお寺で、本来の前神寺は奥前神といわれる常住にありました。山開きの十日間だけは、前神寺の蔵王権現を山頂に移します。

(上 P153)
横峰寺の縁起には、役行者が星ケ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た。蔵王権現の尊像を行基菩薩が自刻の大日如来の胸中に納めて寺を建てた、と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるので、山頂本尊は吉野蔵王堂と同じ三体の蔵王権現です。修験道には本尊を複数でまつる性格があって、いまでも過去・現在・未来の三体をまつっています。

(上 P153)
神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現です。もとは山開きのときは、常住まで三体蔵王権現が上がりました。神仏分離以後は、神社のほうは別に石土大神をまつるようになりましたが、じつは石土大神のほうが古いわけです。石土といったのは、この山が木の生えない岩峰だったからです。「いしづち」の「つ」は「の」という助詞、「ち」は霊のことですから、石の霊が籠(こも)る山だという意味です。

(上 P154)
なぜ現在は石鎚神社と呼ばれているかといいますと、石土という名前は仏教的なことが伝えられているというので、仏教から分離しようとしたからです。

(上 P157)
横峰寺は前神寺と別当を争っていました。どちらかというと、横峰のほうが登りやすかったようです。役行者の話が出る星ケ森という奥の院を信仰の対象にする場合は星ケ森を通り、弘法大師を信仰の対象にする場合は石鎚山を通ることになります。

(上 P171)
奈良時代の『日本霊異記』は「槌」という字を使って、「石槌神」がこの山にいると書いています。また『日本霊異記』では、寂仙菩薩が石鎚山を開いて修行したとされています。

(上 P172)
上社は弥山にあります。現在は露坐の石土大神三体が立っていますが、昔は銅の祠(ほこら)の中に三体の蔵王権現(ざおうごんげん)がまつられていたという記録があります。それが石土大神の本地仏だったわけです。

(上 P172)
江戸時代から成就という字が書かれていますが、もともとは常住です。
 (略)
石鎚山の山頂は、冬は雪に閉じ込められて住めませんから、一四五〇メートルの常住に留守居の坊さんがいて、お経を読んだり、花を上げたりして、山頂の神様をおまつりしていました。こういう坊さんを常住僧あるいは山籠僧(さんろそう)と呼びまして、その場所がすなわち常住です。

(P173)
寂仙菩薩のような人たちがいたときは、中社が常住であったとおもわれます。下社は現在の里前神寺の権現神殿といわれるものです。神仏分離以後、前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上のところを聖地して現在の石鎚神社ができました。

(P173)
前神寺は石鎚権現社の別当職を勤めました。
 (略)
江戸時代の中ごろには前神寺が石鎚修験の先達を支配していたことがわかります。そのころは里前神寺が霊場になっていますが、本来、前神寺は石鎚修験の中心的な神社でした。

同時に、里前神寺は納経所であって、前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国○(彳+扁)礼霊場記』も、ここにお参りした場合は上まで登らなければいけないと書いています。
 (略)
現在は七月一日から十日間が山開き、それ以外は山を閉ざしています。

(P174)
三十六の行場は、最近ではほとんどなくなってしまいました。石鎚神社で調査したものが『石鎚山旧跡三十六王子社』に出ているので、かなり厳しい行をしながら登ったことがわかります。『四国○(彳+扁)礼霊場記』は、これをしないと本当は前神寺の札を打ったということにはならないと書いています。

(P174)
石鎚山別当職を確保したのは常住にあった前神寺でした。これは石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので、前神と称したからです。したがって、奥前神寺が里に下がって里前神寺になると、ほかの寺も別当を名のるようになりました。それで江戸時代には訴訟などもあったようです。

(P175)
『四国○(彳+扁)礼霊場記』を見ると、権現さんがすなわち前神寺の本尊です。ここでいう寺は庫裡(くり)のことで、本堂ではありません。それが霊場の実際の姿だとおもいます。江戸時代に入ってから、それぞれ本堂を建てて寺の体裁を整えますが、もともとは権現が霊場で、そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていました。したがって、奥の院に参らなければ意味がないわけです。