よりどころ

※ 一部、管理人がふりがなを入れました

 四国遍路の寺・上 室戸岬、石鎚山 P58

善通寺の西にそびえる我排師山(がはいしざん)も、空海が辺路修行をした場所のひとつだとおもいます。

我拝師山は五岳善通寺の五つの山のひとつに数えられているので、空海が青年時代に修行したときに我拝師山に登ったというのも、非常に自然な話です。


 四国遍路の寺・下 大窪寺 P20

そして、弘法大師がここで求聞持法(ぐもんじほう)を修行したということがありますが、場所からいって確かです。あとで申しますように、地理的な条件からいって、弘法大師が阿波(あわ)の大滝嶽(たいりゅうのたけ)、あるいは土佐の室戸岬で求聞持法を修行したということとあわせて考えますと、弘法大師が帰省するのは善通寺ですから、善通寺から阿波の大滝嶽、そこから土佐の室戸岬に行くにはどうしてもここを通らなければならないからです。
 (略)
したがって、青年時代の空海が善通寺から阿波へ出て、焼山寺(しょうさんじ)、大滝嶽(現在は太龍寺、たいりゅうじ)、室戸岬に出ていくには当然通過し、修行すべき霊場であるから、奥の院に空海修行の伝説があるのは当然です。


 四国遍路の寺・下 藤井寺 P77

弘法大師は間違いなく善通寺から大窪寺(おおくぼじ)に出て、そこから切幡寺(きりはたじ)に下がってきて、切幡寺から直接藤井寺に出て、焼山寺(しょうさんじ)に入ったとおもいます。焼山寺に入ったことは間違いありません。自叙伝の中に太龍寺(たいりゅうじ)で求聞持法(ぐもんじほう)をしたと書いているので、焼山寺から太龍寺に行って、それから室戸路に出ます。これがいわわば歴史地理的に見て是認できる弘法大師の足跡です。

そうすると、ここへ来た時は切幡寺から直接藤井寺に越えたかもしれまん。高越寺(こうつじ)は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とする求聞持の聖跡ですから、一度高越寺に出て、藤井寺から焼山寺に出た可能性もあるようです。
 (略)
縁起では弘法大師修行のところだといっています。その遺跡が寺の後ろの八畳岩(はちじょういわ)というところに残っていて、立派な杉の木があります。そこから焼山寺に行く道があるので、若き日の弘法大師が善通寺から焼山寺を経て室戸岬への辺路修行をした可能性があります。その場合はかならず通過しなければならない道です。また、西側の高越山の高越寺では虚空蔵菩薩をまつり、大師が来たと伝えているので、切幡寺から高越寺、それから藤井寺、焼山寺という道も考えられます。


 四国遍路の寺・下 焼山寺 P84

空海自身は善通寺(ぜんつうじ)から阿讃国境の山脈を越えて一路南下し、吉野川を渡り、藤井寺からこの山道に入ったと推定するのが自然です。藤井寺自体が独立の行場であったというよりも、焼山寺(しょうさんじ)の入口とすることで意味があります。藤井寺に八畳岩(はちじょういわ)という行場があります。しかも、行場の奥の院の本尊が虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)ですから、焼山寺の虚空蔵さんをここで人々が拝んでいたわけです。したがって、ここから入っていくということに意味がありました。


 四国遍路の寺・下 鶴林寺 P125

おそらく初期の四国の辺路は、讃岐から大窪寺(おおくぼじ)を経て阿波に出ると、藤井寺で山に入り、長戸庵(ちょうどあん)、柳水庵(りゅうすいあん)を経て、ほとんど直線で焼山寺山(938メートル)に登ったと推定できます。それから東に鬼籠野(おろの)に下がって、高鉾山(たかほこやま)の旭ケ丸(あさひがまる、1019メートル)を越えると、鶴林寺(かくりんじ)の奥の院である慈眼寺(じげんじ)の洞窟に出ます。

そこから坂本、三渓(みたに)を通って横瀬または棚野から旧道を登って鶴林寺の裏へ出る道があります。おそらく空海はこれを通ったでしょう。
 (略)
空海の青年時代の修行路は、この三つの山を経て、二十三番の日和佐(ひわさ)の薬王寺(やくおうじ)で海岸に出て、それから海岸をずっと室戸岬まで出たものと推定できます。


 四国遍路の寺・下 水大師 P144

ところが、四国の道という名前で呼ばれている現在の遍路道のほかに、もう一つ前の道があったと考えざるをえないのです。これが辺路(へじ)というものです。したがって、辺路から札所札所をめぐる遍路道になり、現在は新しい国道が通っているという三段階の変化を考えないといけません。

また、阿部の御水大師(おみずだいし)などを見ますと、もう一つ古いものがあると考えられます。現在の国道があり、その奥に遍路道があり、さらに海岸に辺路の道があって、いろいろ屈曲しております。そのうえもう一つ、波打ち際にあったと考えられる道がこれこそ本当の辺路というものです。


 四国遍路の寺・上 室戸岬、石鎚山 P46

辺路でいちばん大事なのは「行道」(ぎょうどう)をするということです。空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬です。


 四国遍路の寺・上 室戸岬、石鎚山 P56〜58

(『三教指帰』(さんごうしいき)の)下巻は24歳の血の気の多い時分の話ですから、石鎚山で修行をしていると雲がわいてくる、わいてくる雲が娘の姿に似てくる、ついそれに気をとられたというくだりもあります。さらに、自分は金巌(きんがん)(加禰能太気・かねのたけ)に登り、あるいは石峯(せきほう)(伊志都知太気・いしつちたけ)に行ったと書いているので、石鎚山に上がったことは事実です。

(参考)愛媛県生涯学習センターのサイトより(データベース「えひめの記憶」/四国霊場八十八か所の成立 http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=54&P_FLG1=3&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=9

「金巌」の自註(聾鼓指帰)には「加禰能太気」、「石峯」の自註には「伊志都知能太気」とあり、後者は石鎚山をさすことにまちがいないが、前者を「金山」といわれる出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。

石鎚山の修行は中辺路になります。青龍寺(しょうりゅうじ)から足摺まで札所がなくなるのは、中辺路を通る道、つまり、岩屋寺(いわやじ)を通って、石鎚山に上がって、瀬戸内海に出る道があったからです。

伝説的なところは省くとしても、弘法大師は室戸岬の修行をするときに青龍寺に行ったとおもいます。

青龍寺から石鎚山に上がったとすると、どうしても弘法大師が修行したという場所や、弘法大師が彫ったというお不動さんがある岩屋寺を通らなければなりません。

岩屋寺を除いて空海の辺路修行は考えられません。岩屋寺が辺路であったことは、その山号からわかります。なぜなら、岩屋寺は石鎚山の山懐に抱かれた谷の底にあるのに、山号は海岸山というのです。お寺では弘法大師がここに立ちこめた霧を海と見立て、吹く風を波風と見立てて作った歌があるから海岸山というのだと主張しておりますが、辺路を考えると、ここもやはり海になります。石鎚山に登ると海が見えるので、辺路修行です。そこにいたる過程を、海の修行、辺路の修行とおもってやっているので、あくまでも海のかなたの常世を信仰したのが辺路修行だといえるわけです。

岩屋寺から石鎚山に登る道は非常に緩い道です。それに対して前神寺(まえがみじ)の北の方から登る道はたいへん急です。現在はケーブルカーで上がったところが常住(じょうじゅう)という常住僧がいたところです。ここにもとの前神寺がありました。本当の本尊さんは山頂にあって、お寺は中腹にありました。里のお寺が現在の前神寺です。

いまの前神寺は里のほうのお寺で、本来の前神寺は奥前神といわれる常住にありました。山開きの10日間だけは、前神寺の蔵王権現(ざおうごんげん)を山頂に移します。北から登ると、試みの鎖・一の鎖・二の鎖、それからずいぶん長い三の鎖と4本の鎖を登らなければなりません。いまはスカイラインができていますが、面河渓(おもごけい)を通って南から登ると緩い登りです。下るほうに北側の急な鎖禅定(ぜんじょう)があるので、岩屋寺から登るほうがむしろ自然です。


 四国遍路の寺・下 大日寺 P193

ただ、海岸から離れておりますので、ここまで弘法大師が来たとは、ちょっといいにくい。弘法大師が辺路修行をしたことは事実ですが、その道筋は海岸に沿ってのびています。物部(もののべ)川を渡って、西へ西へと行くと三十二番の禅師峰寺(ぜんじぶじ)に出ます。

五台山(ごだいさん)に弘法大師が来てもべつに差しつかえないとはおもいますが、いちばん自然なのは海岸に沿って種崎(たねざき)というところに行って、それから桂浜(かつらはま)に出ていく道です。現在、浦戸(うらど)湾を渡る有料の橋ができています。橋を渡って桂浜に出ると、三十三番の雪蹊寺(せっけいじ)があります。


 四国遍路の寺・上 金剛福寺 P77

足摺岬は、弘法大師にまつわる一つの縁起ができているくらいですから、ここに寄らなかったということはありえないとおもいます。