白石の鼻 ← 総津権現山 → 岩屋寺
 


総津権現山
(そうづごんげんやま)
愛媛県砥部町


サイトで「青年期の弘法大師が修業した総津権現山」を知り、「総津権現山へ行こう!」のサイトをたよりに権現山に向いました。

県道306号、中野川にかかる橋を渡ると「豊峰神社」の石碑に続いて「豊峯神社」の鳥居、そして、渓流が響き渡る谷間の傾斜地には堂宇が点在していました。「五十一番 石手寺奥之院 石鉄寺」の石碑、「西の高野 大師空海 求聞持の里」と題された案内には古図と石鉄経、「大師空海十八才修行の地 石手寺奥の院 石鉄(いしづち)寺」の案内には堂宇の写真と位置が示されていました。

「砥部町商工会広田支所」のサイトによると、権現山は連岳峰で、左から豊岳(遠見嶽)、権現嶽(雄岳)、赤の水岳(雌岳)と呼び、権現嶽の山頂に「蔵王権現社」が祭祠されているそうです。現地の「権現山遊歩道総合案内図」には山頂に「豊峰神社」が描かれていました。「こたろう博物学研究所/広田村」のサイトでは「赤の水岳」は閼伽の水岳、下記の古図「豊峰山細見之圖(とよみねさんさいけんのず)」には平ケ嶽とあり、山頂に祠が描かれています。

赤の水岳に張り付くように建立された本尊釈迦堂の石碑には、

「石鉄寺由緒記 ガンダーラより日本に釋加仏来日以降役の行者大慈大悲の願を以て当寺を開山す その後空海十八才の時求聞持の法修せられ八十八ケ寺を開くため伊予立花の此の里に四国鎭護の護摩修行道場を建立し悲願大成せらる 昔桓武の帝勅使たて神変大菩薩御■(悩?)の祈願をせられ官符を賜う処也 空海生誕一千百五十年祭に当り人類平和を祈念して此処に再興す 昭和五十九年八月吉日建■敬白」

と記されていました。

現地を探訪し、サイトの情報を再確認して疑問に思ったのは「石鉄寺」「豊峰神社」「石手寺奥之院」の扱いです。

●「総津権現山へ行こう!」のサイト:
    http://angelcymeeke.web.fc2.com/sozugongen/index.html

●「砥部町商工会広田支所」のサイト:
    http://ehime-sci.jp/26hirota/

●「こたろう博物学研究所/広田村」のサイト:
    http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/towninfo/hirota.htm#%8C%A0%8C%BB%8ER


江戸時代に描かれたという「豊峰山細見之圖(とよみねさんさいけんのず)」 ※「愛媛県生涯学習センター」のサイト(http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?) より


大師空海堂に貼られていた古図 / 本尊釈迦堂の位置に「奥の院 石鉄寺」「空海十八才求聞持の所」と書き込まれていました。


境内にあった案内の古図 / 名称などが清書され、新たに「奥の院 石鉄寺」が記入されていました。

大師空海堂に貼られていた「大師空海 一千二百年降誕祭」を案内した古図は、愛媛県生涯学習センターのサイトで紹介されている「豊峰山細見之圖」と同じものですが、現在の本尊釈迦堂の位置に「奥の院 石鉄寺」「空海十八才求聞持の所」と書き込まれていました。「西の高野 大師空海 求聞持の里」の案内の古図では名称などが清書され、新たに「奥の院 石鉄寺」が記入されていました。「豊峰神社」は豊峰山細見之圖には見当たりません。

愛媛県生涯学習センターのサイトの「この権現山は、蔵王(ざおう)権現社を主体に6社6坊の社寺がある堂々たる構えで、当時の栄華がしのばれる」と紹介されている社寺は「一ノ鳥居」の外側の中野川を渡る手前に描かれており、点在する堂宇は古図の作成以降に建立されたようです。

この件に関して、総津権現山へ行こう!のサイトでは「山の入口に建つ堂宇は実は真新しいものです。森田さんという方が私財をなげうち、近隣集落の方々の協力も受けつつ、自らも重機に載って造成を始め、こつこつと建てられたものです。」と述べられています。ととろさんのお遍路道中記のサイトによると「一ノ鳥居」の手前の清巌寺が「石鉄寺」を管理(納経とも)されているそうです。古図にある本坊の清巌寺がこちらのお寺のようです。

●「ととろさんのお遍路道中記」のサイト:
  http://www.ohenro-portal.jp/doucyu/436/201303/1721.html

以上のことから「石鉄寺」「豊峰神社」「石手寺奥之院」については不明な部分が多いため、当サイトでは触れないことにします。

現地の案内では「奥の院」(求聞持の所)を赤の水岳の本尊釈迦堂あたりに指定されています。しかし、「明けの明星を見ながら拝むのが求聞持法の拝み方」と規定すると、東から東南方向は権現嶽に塞がれているため、明けの明星は見えないと判断しました。

求聞持の手がかりとして、コクゾ峰へ行こう!のサイトに「岩峰・総津権現山にある総津権現社の奥の院が昔、コクゾ峰にあったと云われ、その社に虚空蔵菩薩が祀られていたところから虚空蔵峰となったというものです」という驚くべき情報があります。確かに豊峰山細見之圖にも権現嶽の左手に「虚空蔵山」が記されています。求聞持法は「虚空蔵求聞持法」です。この総津権現社の奥の院こそ求聞持窟で、青年空海が求聞持法を修せられた場所であろうと考えられます。ふもとの滝(白糸の瀧)で垢離(こり)取り、権現山(豊岳、権現嶽、赤の水岳)で行道、コクゾ峰の求聞持窟(奥の院)で求聞持法、という行程が想定されます。

●「コクゾ峰へ行こう!」のサイト:
  http://angelcyfer.web.fc2.com/kokuzo/index.html



コクゾ峰(標高825m、長曽池より)

「石鎚山に登拝できない人々のために、石鎚神を勧請(かんじょう)して小石鎚などと呼ばれる模擬石鎚が各地に存在する」(愛媛県生涯学習センターのサイトより)を踏まえ、行場としての権現山に身を置き、山頂に祀られているという蔵王権現、そして青年空海に思いをはせながらのぜいたくな探索になりました。

バイクは県道306号に駐輪しました。


国道379号から県道306号に入り、しばらく進むと豊岳(遠見嶽)が現れます。


橋を渡ると「豊峯神社」の鳥居 / 古図の「一ノ鳥居」と思われます。




谷間には堂宇が点在しています。


本尊釈迦堂(釈迦三尊)/ 境内の案内の古図に書き込まれていた「奥の院 石鉄寺」(求聞持の所)は本尊釈迦堂あたりです。高所ですが東から東南方向(画像の左)は権現嶽が立ちふさがり、明けの明星は見えないと思われます。


本尊釈迦堂と閼伽(あか)の水の洞窟方面へ


閼伽(あか)の水の洞窟へは右下の梯子から左上まで足場が組まれた垂直の岩壁を登らなければならないようです。危険すぎて見上げるのみです。閼伽の水への正規?のルートではないように思いました。


本尊釈迦堂 / 三方は絶壁です。


本尊釈迦堂より権現嶽を望む


本尊釈迦堂より境内を望む


赤の水岳のふもとの「マントラ(洞窟)」(不動明王・阿弥陀如来・千手観音)



白糸の瀧 / 権現嶽と赤の水岳の谷間に流れ落ちています。不動明王の真言を唱えました。高さ15m、滝壷の直径は約5m、水深は約2m。※数値は「こたろう博物学研究所/広田村」のサイトより


いよいよ権現嶽の登拝です


案内には「権現山遊歩道」とありましたがとても遊歩道とは呼べませんでした。早くも進むか引き返すかで悩んでしまいました。行場です。精神の集中を必要とします。


「せり割り」、狭い岩の間を進みます。


「一の鎖」にたどり着きました。ためらうことなく梯子を選択します。


上から見た「一の鎖」と梯子 / 足を滑らせれば谷底です。


木の根や用意されたロープをつかんで登ります。


「不動の岩屋」/ 分岐から「あかの水」へ向う途中にあります。


「あかの水」方面は荒れていたので引き返すことにしました。


「二の鎖」へ / はじめて遊歩道らしい道になりました。気持ちのよい空間です。


「じゅずかけの杉」



「二の鎖」/ 梯子も用意されていますが途中までのようです。「総津権現山へ行こう!」のサイトによれば、次の「三の鎖」場には梯子はなく、さらに厳しい登山になるもよう。装備や体力から今日はここまでということにしました。

古図には「二の鎖」の取り付きを左手に進んだところに「行者堂」が描かれていますが、そちらへの道は崩落したようです。


「二の鎖」の手前から望む「赤の水岳(雌岳)」/ 古図には平ケ嶽とあり、山頂に祠が描かれています。また、豊岳(遠見嶽)の山頂にも祠が描かれています。砥部町商工会広田支所のサイトによると、三つの連岳峰は遊歩道によって結ばれているそうですが、遊歩道案内図には、赤の水岳は「あかの水」まで、豊岳方面の遊歩道はありませんでした。「総津権現山へ行こう!」のサイトで紹介されているように、権現嶽の山頂あたりから遊歩道が設置されているのかもしれません。


多宝塔(四天王・虚空蔵菩薩)の背後にそびえる権現嶽 /「二の鎖」から「三の鎖」、山頂の蔵王権現へのお参り、そして、コクゾ峰(奥の院)の課題を残したまま帰路に着きました。