野路山と弘法大師

 ・野呂山について 
 ・野路山と弘法大師
 ・参道を探る   
 ・行場を探る   
 ・明けの明星を探る

野路山(野呂山)と弘法大師の関係を『野路山 伊音城 弘法寺』(山根昭三 著)から推測します。同書は弘法寺の歴史や行事、境内や参道(安浦町中切)の史跡の解説など貴重な情報がまとめられています。呉市図書館に所蔵されています。




 伝承【1】

『延暦11年(792)、空海19歳の時、厳島の弥山で修行された。帰途、野路山に登られ岩窟に籠り修行された。食事は中切の人々がお世話をした。山を降りられた後、山上に光が見えたので偉いお坊さんであったと思い、お堂を建ててお祀りした。』

<管理人>
大聖院のサイト(※1)では空海が弥山で修行されたのは806年としています。空海が唐から帰朝されたのが大同1年の10月(806、33歳)、大同4年(809、36歳)まで太宰府に滞在。したがって、太宰府に滞在中に弥山に登られたとすると年齢(時代)にずれが生じます。

『延暦12年(793)大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。(※2)』そうですから、この時に野路山に登られたのかもしれません。『大和(金剛・葛城山系)、吉野、大峯山系から高野山での山岳修行、熊野の辺路(へち、へぢ)を歩き、四国に渡り、大瀧岳をめざした。大瀧岳から室戸岬、石鎚山での修行を終えて、延暦12年(793、20歳)和泉の槇尾山寺において剃髪受戒した。(※3)』という行程に野路山を組み入れることは不可能ではありませんが、期待を込めた話になります。また、野路山で修行されたということは、行場としての野路山が四国(の行者の間)に伝わっていたということになります。

(※1)「大聖院」のサイト:
    http://www.galilei.ne.jp/daisyoin/
(※2)「ウィキペディア」のサイト:
    http://ja.wikipedia.org/wiki/空海
(※3)「エンサイクロメディア空海」のサイトより要約(空海の生涯/空海誕生):
    http://www.mikkyo21f.gr.jp/


 伝承【2】

『弘仁3年(812)、49歳の時に再び野路山に登られた。その事跡に鑑み、中切の住民が大師堂を建立し弘法大師の像を祀った。』

<管理人>
弘仁3年(812)は空海39歳、49歳は弘仁13年(822)になります。『四国遍路ひとり歩き同行二人・解説編』 (へんろみち保存協力会編) によると、弘法大師が四国の霊場で「堂宇の建立や再興」あるいは「逗留(とうりゅう)されて祈祷、修行された」とする年代は、大同2年(807、33歳)と、弘仁年間(810〜824)のうち弘仁6年(815、40歳)に集中しています。大同2年は唐から帰朝されて太宰府に滞在されていた年代です。

太宰府に滞在されていた三年間について、「エンサイクロメディア空海」では次のように述べられています。

『帰国後の三年間、空海はどうしていたか。九州筑紫でしばしの滞在の後、故郷の四国に戻ったのだ、と思う。四国は生国であるばかりでなく、若い頃の修行の場でもあった。四国各地を歩き、その足跡が「遍路」の起源となったことであろう。遍路のみならず、後の大師信仰の原形となるような足跡を各地に多く残したであろう。(※1)』

また、弘仁12年(821、48歳)の満濃池の修築のころの空海の多忙さについて、次のように記載されています。

『この時期、空海には高野山造営の辛苦の上に、仮寺である高雄山寺の運営、別当を辞した後の東大寺の密教化事業、宮中での祈祷や中務省での役務、さらに自らの密教や詩文論の著述、そして梵語・漢語の字典の編纂など多忙をきわめていた。(※2)』

これから推測されるのは、帰国されて高雄山寺(現在の神護寺)に居を定められてからは、東大寺の別当職に任じられるなど、高野山の開創までも多忙な日々を送られていたのではということです。

このような中で、四国に渡られ「堂宇の建立や再興」あるいは「逗留されて祈祷、修行された」と伝わる弘仁年間(810〜824)の数多くの話にはもうひとつ納得しがたいものがあります。もっとも「堂宇の建立」自体は大工が行うので空海が立ち会う必要はないのですが。空海の行動力からしてみれば疑うべくもない話なのかもしれません。

したがって、「空海が野路山に登られて修行された」と考えられるのは、四国で修行をされた19歳から24歳(延暦11年〜16年、792〜797)のころ(『797年ころまで阿波大滝嶽、土佐室戸岬、石槌山などの山野に修行(※3)』)、そして、帰国されて太宰府に滞在されていた三年間(大同1年〜4年、806〜809)の33歳から36歳のころ、ということになります。

再び野路山に登られたという伝承を、弘仁年間の四国霊場での御巡錫(ごじゅんしゃく)の話のひとつにすることもできますが、他の行者の話を弘法大師として伝承化したものと考えることもできます。また、大師堂の建立は弘法大師信仰が広まってから、時代が下ってからだと考えられます。

(※1)「エンサイクロメディア空海」のサイト(空海論遊/宮坂宥洪のページ/空海の軌跡)より:
    http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-11.html
(※2)「エンサイクロメディア空海」のサイト(空海の生涯/高野山入山)より:
    http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat37/post-166.html
(※3)「エンサイクロメディア空海」のサイト(空海年表)より:
    http://www.mikkyo21f.gr.jp/kuhkai-chronicle/chronicle_p3.html


(補足)空海という名について

幼名は佐伯真魚(さえきのまお)。大瀧岳から室戸岬、石鎚山での修行を終えて、和泉の槇尾山寺において剃髪受戒し、大安寺所属の沙弥「教海」となられたのが延暦12年(793、20歳)。そして「教海」から「如空」へ。さらに「如空」から「無空」へ。得度授戒して「無空」から官僧の「空海」になられたのが延暦23年(804、31歳)。(※1)』 延暦16年(797、24歳)に『聾瞽指帰』(ろうこしいき、後に『三教指掃』(さんごうしいき)に書き改め)を著されたときが「如空」であることから、四国で修行をされたころの名は19歳の「佐伯真魚」から20代前半の「教海」ということになります。

(※1)「エンサイクロメディア空海」のサイト(空海の生涯/空海誕生)より要約:
    http://www.mikkyo21f.gr.jp/


 伝承【3】

豊島の漁師が豊島沖で漁をしていた時に青い玉が網にかかった。青い玉を船にあげると舵が変わり船は才崎の海岸についた。そして青い玉は野路山の岩窟に導いた。その夜、入定された弘法大師が夢に現れたので漁師たちは弘法大師の霊として青い玉を祀った。』

<弘法寺の本尊について>

昭和初期までは【3】の「青い玉」が大師堂(野呂山)の御本尊だったそうです。布教しやすいように住職が自宅に子安大師を、御本尊に「青い玉」を祀られ、住職の死去にともない「青い玉」は三本松公園の大師堂(※)に移されたそうです。(※)昭和30年、中切の子安弘法大師堂を三本松公園に移築。

現在の弘法寺の御本尊は真福寺(浄土宗)に安置されている弘法大師像だそうです。真福寺旧記の「野路山 弘法大師 本体白き石仏 四方にして 御長壱尺余 世の人 弥勒石と申し候 御前立 木仏の座僧 弘法大師の像」の弘法大師像だと思われます。お接待をされていた方の話によると奥之院(岩窟)の厨子に安置されているという大師像はレプリカのようです。大師像は25年ごとに御開帳されます(前回は平成6年5月)。真福寺旧記の御長壱尺余(約30cm)の「弥勒石」が気になります。弥勒石は白き石仏」ということなので「青い玉」ではないようです。昭和初期まで御本尊だったというこの「青い玉」が現在も三本松公園の子安弘法大師堂に祀られているのかどうかも気になるところです。