行場を探る

 ・野呂山について 
 ・野路山と弘法大師
 ・参道を探る   
 ・行場を探る   
 ・明けの明星を探る

伝承では弘法大師の修行の内容は伝わっていません。わずかに「岩窟に籠り瞑想された」と伝えられているだけのようです。ここでは、空海が四国で行っていたといわれる修行のかたちを野呂山(野路山)にあてはめました。すなわち(1)行道、(2)求聞持法、(3)聖火、のフルバージョンです。求聞持法(虚空蔵求聞持法)については虚空菩薩像が伝来したり、山中から発掘されれば求聞持とつながるようなのですが、そのような事実は見当たらないのであくまでも期待をこめた想像になります。また、行の作法などはまったくの無知なので、以下、お遊びの話として紹介します。

修行は百日間に及びます。『四国遍路の寺』によると、修行には従者がいたそうですが、「食事は中切の人々がお世話をした」という伝承から、従者がいなくても聖火の薪を集めたり食事などは万全だったのではと都合よく考えることにします。

一日のスケジュールがどうなっていたのかも不明です。明けの明星を見ながら拝むのが求聞持法の拝み方だそうです。となると、深夜から明け方まで求聞持法、日中は行道、聖火は夜に焚くので睡眠時間は3〜4時間になります。虚空蔵菩薩の真言を一日一万遍、百日間で合計百万遍唱えます。最終日には「明星が来影」して求聞持法が成就するそうです。明星の来影とは『口の中に入ってきたり、机に落ちてきたりする』ことで、『夢に星の落ちるのを見てもいいし、流星を見てもいいといわれている』(『四国遍路の寺』)そうです。空海の場合は『口に飛び込んだ』そうです。

<エンサイクロメディア空海>のサイトより(空海の生涯/空海誕生)
『土左ノ室生門ノ崎ニ寂暫ス。心ニ観ズルニ、明星口ニ入リ、虚空蔵光明照シ来リテ、菩薩ノ威ヲ顕シ、仏法ノ無二ヲ現ズ。』(『御遺告』)

●「エンサイクロメディア空海」のサイトより(空海の生涯/空海誕生):
  http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/test/post-122.html


 <岩窟>


奥之院の岩屋 / 睡眠や食事をとったり、求聞持法を行ったであろう岩屋(現在の奥之院)は次のような構造になっています。『野路山 伊音城 弘法寺』の見取図に管理人が着色(茶色が岩部分)、寸法を記入(赤字)しました。一部、管理人の計測によります。方角などは「明けの明星を探る」の図面で紹介します。



岩屋内の厨子 / 岩屋に覆われている部分(雨を防ぐことのできるスペース)は厨子が安置されている部分までです。奥行きは1.5mくらいに見えました。


奥之院の床下部分 / 現在の床面は、お堂の床面と同じ高さになるように石積みにより1m以上かさ上げされています(床の下に潜り込んで確認しました(事後承諾))。床下部分の実際の奥行きは不明です。床上より浅くなっているかもしれません。


「梁穴」(右側)/ 岩には「梁穴」が左右2個ずつ彫られていますが、これはかつての大師堂の遺構のようです。この上部のあたりに横木を渡して屋根状のものを置けば雨をしのぐことができそうです。飲み水は北面の岩場から取水できます(現在の「弘法水」はポンプで汲み上げられています)。


 <行道>

『四国遍路の寺』によると行道には、四国全体を回る大行道、室戸岬の岩や岬や山(西寺、金剛界)と洞窟(東寺、胎蔵界)をめぐる中行道があり、不動岩は行道岩と呼ばれて小行道が行われていたそうです。


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 ● 目標となる岩など

参道の札所として整備され祀られている岩を中心にしていますが、他にも周辺に相応の岩や木があるかもしれません。

行道(1)は小行道のコースとして設定しました。奥之院から右回りに周回します。巨岩を縫って何回も回ります。コース中にある「飛び岩」ですが、岩が「飛び飛び」になっているので形状的に「飛び岩」、あるいは岩から岩へ「飛んで」渡ることから「飛び岩」と呼んでいると思われます。行場として考えると「捨身岩」(しゃしんいわ)です。岩を渡る行をしていて落下すると捨身になります。行者は落ちても仏になるという信仰をもとに行道を実践するそうです。

行道(2)は金剛界として「大重岩」、胎蔵界として地蔵岩札所の「くぐり岩」を設定しました。現在は岩場(札所)を巡る参道がありますが、当時は獣道、あるいは山仕事用の道くらいしかなかったはずなので、現在より条件は悪くなります。

行道(3)は(2)に行者山(369m?、向山)を加えたコースです。行者山は岩窟(弘法寺)から直線距離で約5kmです。現在、中腹に大師堂があり、頂上付近には大天狗岩、小天狗岩があるそうです。大師堂から先は登山道がわかりづらくなっているようなので探索に出かけるのを躊躇しています。


弘法寺から行者山方面を望む


「天狗が権現様との取りつぎをしていた」という行者山の伝説から、この天狗は行者山の行者だと思われます。行者が行をしていた、その行者がお参りの取り次ぎをする、お堂が建てられて便を計る、お堂をお参りしやすい麓に降ろしてお寺を造営する、というのが四国霊場に見られる流れだそうです。


 <聖火>

龍神や海のかなたの常世の神(祖霊)に捧げる聖火を焚きます。柴燈護摩(さいとうごま)の発祥だそうです。「むかし、川尻海上の漁師が毎夜、野路山上に火光が見えるのを不思議に思い、登ってみるとやや広い平地があって、弘法大師の像と梵鐘の破片が散乱していた」という伝承は、行者が聖火を焚き、その火が海から見えたことを示しています。

「聖火」は現在の柴燈護摩より規模が大きかったようです。したがって、聖火は岩屋の外で焚かれたと考えられます。現在の弘法寺は整地をして建立されたそうですが、当時の岩屋の前あたりも聖火を焚くだけの広さはあったようです。眼下には瀬戸内海が広がる絶好の地形になっています。


かつての大師堂(『野路山 伊音城 弘法寺』より) 現在、写真の大杉はありません。


大滑岩(おおなめらいわ)より瀬戸内海を望む

岩屋の他には「大滑岩」(おおなめらいわ)が候補に上ります。夕陽に染まる瀬戸内海に向って阿弥陀如来の真言を唱える、という魅力的な情景に続いて聖火を炊くという流れです。平たい一枚岩が聖火を焚くのに都合のよい形状になっています(山火事への備えなど)。

<追補 2020年12月8日>
本来は阿弥陀如来ではなく虚空蔵菩薩ですが、「夕陽に染まる瀬戸内海」が西方浄土に見えたため、「阿弥陀如来の真言を唱える」に至りました。


大滑岩 / 南西に開けています。むかし、川尻海上の漁師が毎夜、野路山上に火光が見えるのを不思議に思い、(以下略)」という伝承の「川尻海上」がどのあたりになるのか気になるところです。


 <地蔵岩(地蔵岩札所)>

「参道を探る」で紹介したように、二番札所の地蔵岩は岩の形状や地形など求聞持法を伴う行場としても注目すべき存在になっています。改めて紹介します。



菩薩像が祀られている下段の岩屋 / この岩屋で生活することも可能なように見受けられました。日当りは良好で、谷川の水場も近いです。


延命地蔵尊が祀られている上段の岩屋


戸を取り付れば完璧な「部屋」になります。北西方向に開けているので明けの明星は見えません。求聞持が成就する日には戸外に移動する必要があります。


岩の上(上段の岩屋の前は真っ平らな広場になっています。聖火を焚く場所にうってつけです。


東南の方角が開けており、瀬戸内海が見えます。「明けの明星」が現れる方角です。


くぐり岩(下)/ 地蔵岩札所への登り口にあたります。


くぐり岩(上)/ 三番札所の「不動岩」を金剛界、「くぐり岩」を胎蔵界として行道を行うことができます。